私の、母とその代わりを務めた男性の話をしようと思う。
今日小説を読んだ。電撃文庫からデビューした作家が出している小説で、とても若い20代のリアルな翳のある男性を思わせる小説だった。
構想が固く、拙く、己を曝け出している。
小説っていいなと思った。
私も書いてみようと思う。生憎小さな時から文字を書くのは得意だ。
バンクーバーにいた。
宙吊りになった13階のベランダにいた。
終電の迫った酔っ払いだらけの池袋にいた。
私は泣いていた。
母を見つめ、母は母を見つめ、私たちは常に言い争い涙を流した。
母は私を愛していて、それでいて視線が交差することのない、そういう人だった。
立川のデパートのエスカレーターで、泣くことをやめよう、と誓った。
涙を流さなくなった。
今も、求めている。
私は母からの無条件の愛を求める人間だと、自認している。
ともゆきという男がいた。
彼は旅行が好きで、私は離島でともゆきと出会った。
当時彼は40であり、私は16だった。
彼はいいやつだった。紙に向き合ってみてそう思う。
母と別居し、母に苦しめられた私の話を聞くたびに、辛いだろうが母の罪も赦してやれと私に言ってくる、そういう人だった。
自分の生きづらさと私の生きづらさを重ねて、私の傷を大事にしてくれた。かさぶたのような人だった。
ともゆきはそれだけ傷ついてきたのだと思う。
私は彼を振り回し、振り回されながら目を回してともゆきはそれを楽しんでいたと思う。
2人で歩道のポールを避けながらスキップして、夜の暗闇でキスをしたことを覚えている。腕もターンして回して、その様をともゆきは自前のカメラで撮影して、まるで浮かれた洋画のようだった。
私はまだ彼と付き合った時間を生きていると思う。
もうとっくに別れているけれども、終わっていない、まだずっと包まれたままなのだと感じる。
私たちは、生きていて、ある程度年月が経つとそれを客観的に見ることができると思っている。
だけどそれは勘違いだと思う。いや、もしかしたら、私が24歳だからかもしれないけど。
私はまだ母と暮らした荒れたマンションの時の延長線上に生きている。
ともゆきと恋愛をして、深夜の車で抱かれたあの時間の延長線上で息をしている。
本当の心の反省というのは、こんなにも意識して踏み込まなければ起こらないものなのか、と感嘆する。
私はまだ、男に愛を埋めてもらっている。
私はまだ母と話すことができない。
そして、今思う。
それをより深く解き明かし時間を「今」に直すための方法は、「なぜか?」を追求することではないのだと。
「どう感じていたか?」をより鮮やかに甦らせる必要があったのだろう。
それこそ、文字に起こすのにぴったりではないか。
バンクーバーが蘇る。北米の中ではあたたかなあの冬、12月に1,2回だけ降るみぞれのような雪。手袋をしていそいそとフットボール場へ向かうカナディアンたち。街のウィンドウに飾られた原住民の木製細工。
中学2年生になって私は学校へ行かなくなり、母は相当に思い詰めた。
よって彼女が出した結論は、全財産をかけて更生プログラムに行く、これであった。
私は旅行と騙されて飛行機に乗り、バンクーバーまでやってきた。
もう滅茶苦茶である。母はそういう人だったのだ。
2人でYMCAのツインベッドの部屋に2ヶ月泊まった。
チャイナタウンで買った柄がピンクのテフロンのフライパンで、上手く切れない包丁で切った玉ねぎを白く炒めた。
街の空気はすんと澄みどこか甘く、そして至る所にカエデの色付いた葉が落ちた。
どの建物も柔らかな色味に幅広に建てられ街は清涼であり優しげでありどこか都会的だった。
私はそのときどう感じていただろう。
まず何よりも恐れを思い出す。
知らない街であった。私の慣れ親しんだ、しわくちゃの服が積まれた青い壁の愛すべきベッドサイドではなかった。
私はほとんど食事を規則正しく摂らず、昼夜逆転していた。
本当に世間でやっていける気がしていなかったのだろう、今となってはそう思うことができる。
そんな自信のない人間が全く知らない国、街に降り立ち涼しく柔らかなバンクーバーの空気を嗅いでいた。美しい木並み、薄着のやや太った白人たち、寒気のある曇り空。
怖かった。私は次から次へと知らないスタッフに引き合わされ、怯え震えていた。だがそれを表に出すこともできていなかった。
母に旅行と騙されたことも怯えや怒りに拍車をかけた。
途中。今日はここまで。