青春へのサーチライト沖野です。
それでは今日も元気にいってみよう。
今回の本と評価
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「熱帯」
著者‥森美登美彦
出版社‥文藝春秋
面白度 ☆☆☆☆
読みやすさ ☆☆☆☆
テーマの深さ ☆☆
こんな気分のときに読みたい:涼しい季節
「熱帯」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(公式ホームページより引用)
沈黙読書会で見かけた『熱帯』は、なんとも奇妙な本だった。
謎の解明に勤しむ「学団」に、神出鬼没の「暴夜(アラビヤ)書房」、鍵を握るカードボックスと「部屋の中の部屋」――。
幻の本を追う旅は、いつしか魂の冒険へ!
残念ながらこのあらすじの中で正しい箇所は一つしかない。
「幻の本を追う旅は、いつしか魂の冒険へ!」
以上である。
それ以外は嘘である。
「冒険」。それは心躍る少年の夢だ。
実際に、作中には「鬱々としげるジャングル」や「島々」が出てくる。
迷い込んだ無人島、髭面の「謎の男」…。
しかし、よく読むにつれ「儂は未来のお前だ」と名乗る浮浪者が出てきたり、島の「根底」を探ったりする箇所に気になる。
つまりそれは、「将来の自己への不安」、「己のアイデンティティ」ではないだろうか…。
これらはすべてメタファーである。
実は代表作を次々と世に出したのち、森見登美彦は刊行の頻度を落としている。
そう、これは森見登美彦の「アイデンティティの模索」について書かれた本なのだ。
清書としての本、観察蓄積としての本
しみじみ思うが小説には主に3つの種類がある。
ひとつは作者固有の世界観を舞台した「物語小説」である。
これは標題の「観察蓄積としての本」である。
重松清の「きみの友達」、アーシュラKルグインの「ゲド戦記」、J.R.R.トールキンの「指輪物語」が一例として挙げられる。
「物語小説」は登場人物がその世界で起きていることを受け止め行動する、という形式を取っている。
当然だが時系列は「現在→少し先の未来」であり、目的が達成されるか、後世に引き継がれることで物語は語り終わる。
重要なのは「観察蓄積」である。
物語の舞台は作者の筆の上に顕れる。
現実とかけ離れた魔法の世界や、知らない国。
それらは作者の「観察結果」だ。
このとき作者は自分以外の「外」を観察している。
自と他でいえば「他」に意識が向いているわけだ。
ふたつめは自身の体験をドキュメントとして綴る「 エッセイ」である
さくらももこの「ももの話」や開高健の「開口閉口」などがそれに当たる。
なお、限りなくエッセイに近いが主人公が異なる「事実ベース式物語」もこちらに分類する。
後述の「清書本」に対し、「事実ベース式」は見かけがそっくりでルーツは全く異なるものだからだ。
みっつめは過去の苦しみを昇華するために発した「清書本」である。
このタイプはどんな場合であっても、「自分」と「過去の現象」が登場人物になる。
よって「他」は存在しない。ひたすらに「過去の自分」と「内的な心象」で終わる。
「清書本」は必然に迫られて書かれるものだ。
それは作者がコントロールできるものではない。
リルケがこんなことを言っている。
詩はほんとうは経験なのだ。
(略)
しかも、こうした追憶をもつだけなら、一向何のたしにもならぬのだ。
追憶がおおくなれば、つぎにはそれを忘却することが出来ねばならぬだろう。
そして、ふたたび思い出がかえるのを待つおおきな忍耐がいるのだ。
思い出だけなら何のたしにもなりはせぬ。
追憶が(略)もはや僕ら自身と回別することが出来なくなって、初めてふとした偶然に、一篇の詩の最初の言葉は、それら思い出のまんなかに思い出のかげからぽっかりうまれて来るのだ。
ここでリルケが言っているフローは、
省略部分も含んで解説するが
・少年の日と明るい青年の日々を思い出す-
・ 産婦や通夜といった成人の日々を追憶する-
・追憶を忘却する-
・追憶が血肉となる-
・思い出の影から詩が生まれる-
となる。
リルケ先生の詩のつくり方教室である。制作期間はおよそ80年であろうか。
ちなみに森見登美彦は現在40歳前後。
フローで言ったらおそらくひとつめの段階ではなかろうか。
彼の本から抜粋する。
「…もう僕には書けません」
私は首を振った。
「僕は変わってしまった」
そのとき湧き上がってきた感情は哀しみとも安堵ともつかないものだった。
失われた世界への惜別と、新しく切り開かれていく世界への期待。
ただひとつ分かっていたことは、この世界も私自身も、二度と以前の姿に返ることはなく、ここから私の新しい生が始まるということだけであった。(「熱帯」より)
その手前に興味深い箇所があるのでそこも抜粋したい。
「気をつけます」
「生き延びることが大事だよ、佐山君」
栄造氏は言った。
「なんとしても生き延びなければ」
人生の螺旋階段をのぼるということ
「生き延びなければ」。
私はここを読んで泣いてしまった。
そして残念に思った。
彼の青春----といって差し支えないと思うが---はもう帰ってこないのである。
私たちは20になる。
高校生活はもうはるか彼方に消え、忘却に霞むばかりだ。
世の中に触れ、こわごわながら実践していったあの新鮮な時間は返ってこないのだろうか?
ひとつひとつが鮮烈だった時間は?
歳を経るにつれだんだんと生きやすくなり、世界に慣れ、鮮やかだったものがよくわからなくなってくる。
足場も分からず、自分の世界へ理解の槌をおろせなかった戸惑いは、そのまま消え槌はおろされないままなのだろうか?
「良識のある大人」になって?
森見登美彦は「新しく切り開かれていく世界への期待」といった。
私はそれも「分からない」。
変わることが怖いと思う。
しかし、リルケの
「こうした追憶をもつだけなら、一向何のたしにもならぬのだ。
追憶がおおくなれば、つぎにはそれを忘却することが出来ねばならぬだろう。」
でいえばいつかは返って来るのだろうか、思い出として。
私は私に聞いてみたい、20年後、自分のブログを読んでどうだったのか。
果たしてそれを懐かしく思うだろうか、切ない痛みがきちんと胸を裂いてくれるだろうか。