先日「些細なメモ」という投稿で
一人暮らしということで一本ブログ書きたい
と書いた。
そのときの有言実行が本投稿である。
あまり読者に一人暮らしをしている人は少ないかも知れない。
けれどまあ、お付き合いいただきたい。
さっそく、「些細なメモ」より引用する。
その日に私が感じた一つの情動に関しての話だ。
蛇口の水が出っ放しで、誰も注意してくれないときにこう思った。
ひとはいつか独りになるけれど、側で暮らす家族がいないということはとても(長い目で見ると)風変わりだ
などと考えてる
……末尾は日本語の文法で言えば
などと考えている、が正しいのだが。だが過去の私には届かない。ちゃんと今後書こう。
私は2年前から一人暮らしをしている。
金銭的には扶養に入っているので、まったく自立はしていないが生活しているのは一人だ。一人で身の周りのことをやっている。
一人で、家にいる。
そこには父も母も誰もいない。
おじいちゃんもおばあちゃんも犬のポチもいない。(ときにポチという犬のネーミングセンスには日本の文化に苦言を呈したい。なぜポチなんだ)
家というのは「不必要なもの」の集合体である、というのが私の意見だ。
もちろん物理的な話ではない。概念としてだ。
君は小学生のころにおうちの家具や壁で身長を測らなかっただろうか。
そのとき当たり前のように標をつけなかっただろうか。
また小さいころ学校の授業でやった「アサガオ」、あの鉢がベランダに残ったままになっていないだろうか。
幼いころの集めたカードゲーム のデッキが押し入れにないだろうか。
それらは全部、今いらないものである。
母が、過去の自分が、おばあちゃんが「せっかくだから取っておこう」として残したものでないだろうか。
いつだって不要なものは ぬるく、まだるっこしく、田舎くさいほど垢抜けず、重く、そして「あたたかい」。
それが家だ。
そして正確には実家だ。
私はまだ一面的に「家」というものを話しているにすぎない。
正直にいって、この考え方は少し前から私の中にあった。
だから今回のブログを書こうと思ったのには別の考え方、きっかけがある。
それが冒頭に引用した情動だ。
蛇口の水が出っ放しで、誰も注意してくれないときにこう思った。
ひとはいつか独りになるけれど、側で暮らす家族がいないということはとても(長い目で見ると)風変わりだ
などと考えてる
いまだに言うが「考えてる」ではなく「考えている」だろう、私よ。ちゃんと学び気をつけい。
母は、小言を言ってくれた。
ふとしたとき、(そう上記のとき) にそれはもうないということに気づいた。
抜け落ちている。というか、虚構、というか。
そこだけ「あるはずだった」のにもうない、それは成り立たない、と知ることがあったのだ。母はいない。この家の中にその小言はない。
それが、ああ一人暮らしなんだなぁと思ったのが今回の情動だ。
それ以上に正直説明できることがなくむずかしい。
私たちは当たり前なものに生かされている、とでも言おうか。強いて言えば。
実際知らなかったのだ。
蛇口の水が止まってないとき、「ああ、お父さんそこ止まってなかったよ」という言葉だ、そういうものだ。
それは愛でもなく家の不要なアサガオでもない。それは「必要な当たり前」だ。
当たり前なはずだった。
私はもう家にほかの誰かがいる生活をしていない。
それで彼女(母)のような役割を自分で担っていこうとか、それが出来ていないからどうしよう、とかそういった社会人の義務、みたいな話にはならない。できない。というか、したくない。
私の話はこうだ。
"それが一人暮らしなのだ。"
うん、ただそれだけ。
それ以上でも以下でもないのだ。
お付き合いいただいてありがとう。
↓締めの一曲
https://www.youtube.com/watch?v=TnlPtaPxXfc