サーチライトのつもりだ!

沖野のブログです。続けられるか?

映画「ミッドナイトインパリ」を観て

 

 

未完成だけどあげちゃいます、てへぺろっ!

 

 

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今回は本ブログ初テーマの概念、映画です。

 

今回の映画と評価

Amazon | ミッドナイト・イン・パリ [DVD] | 映画

「ミッドナイトインパリ」

監督‥ウディ・アレン

配給‥ソニー・ピクチャーズ・クラシックス

 

面白度 ☆☆☆☆☆

観やすさ ☆☆☆

テーマの深さ ☆☆☆☆☆

こんな気分のときに読みたい:映像の美しさに触れたいとき,自分の個性を見つけたいとき

 

「ミッドナイトインパリ」はどんな映画なのか

まずはあらすじ抜粋しよう。(wikipediaより引用)

 

 

 

みんな大好き「お酒に酔った夜」のお話

魔法にかけられる主要都市でお酒に酔い魔法にかけられる話

欲望が「もし」叶ったらの話

入れ子構造の話

スパイスとして人生によくある「同じタイプの人間を見て自分を修正する」というのが掛けられている

 

 

 

これらが構造である。まず、最初にね

 

それを踏まえての美しさ。

まず深いレベルでのテーマや型があること、それを前述はしたけど、まずディテールである。この映画はディテールが素晴らしい。

ディテールっていうとまあ色々あるけど、何より主演女優の演技が素晴らしい。

イネズ!!!!!!!!!!!!!!!(発狂)

 

映画には「俳優女優の意見に合わせて好きなように動いてもらう」監督と「寸分狂いもなく決めた動きをしてもらう」監督がいるらしいけどこの映画はどっちの監督かな?

 

衝撃を受けたのは、モネの描いた池がある庭、みたいなところで主演二人が話すカット。映像に主要人物が初めて登場するそもそもの最初のシーンだが、

主演ギル役の男性がマジで噛み合ってないことを言っていて、そのときイネズ役の女性が「アイコンタクト」を合わせない、もう一度いうよ「アイコンタクトを合わせない」。

 

いやいやいやいやいやいやこれ本当、このシーン本当マジですごくてマジですごくてマジですごくて、マジで何がすごかったかというと

・アイコンタクトが合わないと会話が盛り上がっていない という無意識のボディランゲージの知見化

・アイコンタクトが合わないと会話が盛り上がっていない という無意識のボディランゲージの知見化 、とそれを踏まえた知見による画面の印象づけの「意図的な」操作

・かつ!!!!

主演女優イネズ役の女性による、知見の最大限の活用!!!1!!!!!!具体的にいうと「白目をギリギリまで多く見せての」演技、ないし知見を使った画面印象操作、

な、わけ。

 

こんな細かいこといちいち言ってんじゃねえと言われると思うが、しかしこのレベルの細かいところ、そして細かいところで展開されるハイレベルな技術の実行、これがもう、物凄い回数行われている。ほとんど毎秒、このレベルの演技が繰り広げられていて、ヤバかった。

 

まあ基本的に結構やると思うのが

「もの(撮りたい 対象のもの)に対して端に据える横のもの」という技術、

「(メタ的に伝えたい現行シーンのメッセージに対して)似たような要素の付随」という技術 

*これは最初の方のなんか高級そうな「レストラン」で実業家やってる感じの高齢のイネズさんの父親や母親と食事をとるときの場面での主演二人のレストラン入場シーンにおいて、対比として「けばけばしい感じのイケイケなドレスを着た現代風の女性(確か1人だけじゃなくて2パターン登場してた気がする)」の登場ないしは横の通過、というところに現れていた。

あとはかなり後半の、イネズに対して浮気を責め道を分ち、「散歩」に出たあとのところ、昼のパリ路面のカフェで一人飲み物と写っていたときのシーン、手前側、また主演のテーブルの奥側にも、「退屈な人間、もしくは何か、待ち合わせ相手など何か、誰かを待ってそうな印象を受ける人間」が据えられていた。

 

 

言いたいこといえて満足した。

 

ちょっと待ってね、上のレベルでは私もうこれ以上言葉を重ねられないな、かなり集中してた状態だ。

 

 

あーーーーーあのね、主人公の男性のカテゴリやタグって「価値観において感性重視」「良いとされてきた歴史に対する重い感情」「本質という言葉のかなり表面から下層まで意思と行動を支配される人」「理系」だと思うんだけど、

「理系」にフォーカスしまして、

んで「理系」なんだが

 

会話の返しや関心ごとに「細部(ディテール)の状況(ステータス)への確認」、「法則性や事実」判明への強い関心を示すんだよね。

 

 

 

あ、1700文字。

 

ちょっとtweetだけ遡ってみようかな。

語彙を増やして言っていいなら「大きく分けて3つの素晴らしい点があって、・着目 ・俳優のチョイスと演技 ・描写の細やかさ なんだけど、着目についてなんだが一見『時代の古さへの憧憬』みたいなテーマに見えるけど、作中ゴッホ登場あたりで主人公が言っている通り『現実はいつもそう、古い時代へ』」

 

 

 

あーーーーーーーーこれね。

 

これは末尾で述べたいと思っているのは「現実はいつもそういう風に不満になるんだ(それが現実であるがために)、古い時代への思慕もそういうことのうちのひとつなんだ」

という風に主演が言っていて、監督が扱いたかったテーマは本筋そのものに「古い時代への思慕」*ちょっと言葉うろ覚え ではなく「現実への対処」なんだなと思われる、というお話である。

 

あとは女に無理に向き合わないと他から女が寄ってくる とか、

「現代美術館にあるゴッホをみる観光客は観念的にイケてない」 とか(あ、年代物のワインもね)、

 

あとこれ死ぬほどずーーーーーーーっと思ってたのですが

なんか品評家のいけてるおばさまが「芸術は、人間の存在の救いを証明すること」みたいなこと言ってて、

 

んで人間の存在の救い って、この映画のほぼ8割りでいうとギルにとっては「()(名前忘れたけどパブロピカソの愛人だった人)」なんだよね

どの時代でも不完全なレベルで馴染んでた彼に、彼女は救いをもたらした

終始目を見れずに振られ続けてきたけど

 

 

そこが………………………面白いなって………………思ったんですけど……………………

 

もう…………眠くて……………………

 

 

はあーーー最高だった。では!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

600字数制限-10月13日の場合

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

この記事は[600字数制限week]1日目の記事です。

*[600字数制限week]…600字の字数制限をかけてブログを書く週間のこと。

 

 

--

「どっこいしょ。」という言葉がある。

よいしょ、どっこいしょ。老年に多い。

スーパーの棚で荷物をまとめるおばあさんなどが、そう言ってるのを聞いたりはしないだろうか。

しかし今どきの若者ってどっこいしょ使うの?

はて。

私が二年前北海道に旅行にいったときのこと、私が泊まったホテルには一階にカフェ兼レストランがついていた。そのご飯を食べているときの会話だ。

横にいる女性の二人組の人で、どうもキラキラしたOL界の女子みたいな人が、

「ね〜この前もさ私、よいしょなんて言っちゃたんだよ?おっさんかよ!みたいな」

と談笑していた。で、「は?」ってなった。

 

よいしょ、それはスーパーで荷物を詰めるとき、コインランドリーで横にいたベンチから立ち上がるとき、おじいさんやおばあさんが使う言葉だ。

 

それが、なんで彼らが言ってるか知ってる?

その心は「気遣い」だ。

昔は特に顕著におもわれるが閉塞感ある職場、女の職場の厨房、ご近所の付き合い、そういったところでギュウギュウと肩をよせて生きていかなければいけない。

 

立ち上がるとき、横目で見られたつまずいたとき、なにかをこう修正するように、周りに窮屈感を与えないように、そうして気遣われて言われるのが「よいしょ」だ、「どっこいしょ」だ。

 

そして読んでいる皆さまにおかれましては気をつけて聞いていただきたい、おじさんでもなくおばあさんでもなく「どっこいしょ」の本質は「気遣い」であると。

 

 

 

 

 

 

好みのファッション写真4選「お金をかけないでシックに着こなす法 チープシック」

 

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今回の本と評価

 

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お金をかけないでシックに着こなす法 チープシック

「お金をかけないでシックに着こなす法 チープシック

著者‥カテリーヌ・ミリネア ,キャロル・トロイ 

出版社‥草思社

 

面白度 ☆☆☆☆

読みやすさ ☆☆☆

テーマの深さ ☆

こんな気分のときに読みたい:お洒落の参考にする本を読みたいとき

 

「お金をかけないでシックに着こなす法 チープシック」はどんな本なのか

まずはあらすじ抜粋しよう。(Amazonより引用)

1975年、アメリカの2人の女性ジャーナリストによって書かれた本書は、自分自身を生かす新しいおしゃれの考え方について提案しているが、それは21世紀になった今でも十分通用するものであり、色あせるどころかかえって新鮮である。
ファッションメーカーの言いなりになり、流行に振り回されることを良しとしない著者たちにとって、服装とは自分自身で選びとり、その人自身の生き方にぴったり沿ったものでなくてはならない。その視点で語られるスタイルは、ベーシックを基本とし、その大切さを踏まえたうえで、アンティークやスポーツウェア、民族衣装などを楽しみながら着こなしていくというもの。いずれにしても、服装に無駄な時間とお金をかけないのがモットーだ。

300枚にも及ぶ実例写真は、少々古さも感じさせるが、イヴ・サンローランをはじめ、写真家やアートディレクターへのインタビューは、それぞれのファッションへのこだわりがうかがわれ非常に興味深い。

 

 

常識に囚われない洋服の取り合わせについて説明している。

スタイルはアメリカ寄りかな。

(本書はたまにアパレルやセレクトショップなどで見かけたりする。)

 

具体的には、一般的なクチュールに留まらず、軍のデッドストックや古着など自由に服を、それも低予算で楽しむスタイリング例を述べている。

私の中で、文中で「工場労働者の着る作業着(つなぎ)をファッションとして着る」という提案が印象に残っている。

なんとなくつなぎの渋さと意外性が魅力的"イケてる"と感じられないだろうか。

え、私だけ?

 

閑話休題

前にも述べたがこの本はアメリカ系統のファッションである。

個人的には沖野は洋服はヨーロッパ風の方が好みである。

今回のブログでは自分の好きな洋服やその好きな理由をまとめる。

全然カッコよくないと感じる人もいるかも知れないがそこは個人の好みということで。

なるほど、世間にはこんな服を好む人もいるんだな、と横目に見てもらえたら嬉しいなと思う。

 

(本当は本よりコーディネートを引用したかったのだが、今手元に本がないので紹介するのが難しい。ごめんなさい。)

 

モード×シックの洋服4選

まず紹介するのは'1番のお気に入り'から。

水原希子の着るDIOR

 

雑誌25ansの10月号(2015)の画像だ。

「dior woman」のスーツセットを紹介する。

 

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説明文にはこうあった。

パリモードの牙城の真骨頂
世にも美しいジャケットスーツ

メンズのエッセンスを'ディオール ウーマン'らしく取り入れ、再生させた今季のコレクション。メンズスーツのファブリックを用いながら、ディオールらしいウエストを絞ったシルエットをさらにアップデイトし、マスキュリンとフェミニンが融合した新時代のスタイルを実現しています。クリアヒールのスーパータイトなショートブーツで、さらにモダンに。
ジャケット¥470,000 パンツ¥220,000 靴¥220,000 イヤリング¥54,000(すべてディオール/クリスチャン ディオール)

 

②絹100パーセント ユニクロWomanのシャツ

 

お次は王道の「チープ・シック」。

ユニクロのシャツを紹介する。

スーパーお洒落なフリルが素晴らしい。

ユニクロがパリのモデルとコラボした「Inès de la Fressange×UNIQLO」というコレクション。

紹介するのは最新の[2020-aw]から。(2020/8/28より一部店舗にて発売)

出している服ほとんど全てが沖野的に好みですごくいいラインナップだった。

フランスのモデルの意匠らしいシックな空気がとても良いと思う。

 

着ているところはこんな感じ。

 

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絹100%。最高だ。

ドレッシーでシックなシャツがユニクロで買えてしまう。

なんというロマン…!!これがノブレスオブリージュか。(違う)

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https://www.uniqlo.com/jp/ja/products/E430433-000/00?colorCode=COL01

 

ホームページには公式のルックpdfがある。

このシルクシャツのコーディネートを見てみよう。

 

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イネス本人

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シルクシャツを左の女性が着用

 

ちょっと分かると思うが雰囲気が大分ハンサムだ。

それはフランスのパリ風、というのもあると思う。

しかし何よりイネスが色気ありあまる存在でそれをハンサムに装うスタイルが好きなんだと思う。

2枚目の画像のモデルも鼻筋の通ったショートヘアでマニッシュ(男性的)である。

 

イネスドフラサンジュのスタイルは最高に憧れだ。

余人には真似できない、イネスに属したスタイルだ。

 

③「本当にお洒落な人」の街角スナップ

 

さて続いてはfashonブログ"THE SARTORIALIST" から。

https://www.thesartorialist.com/

 

この画像を見て欲しい。

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たしかミラノで撮影された写真だ。

記憶が朧げのため確証はない。(かなり前にwebから保存した)

 

この人の性別、男性。

エッまじで?!と思ったことを覚えている。

"THE SARTORIALIST"を見ていて、大胆な着こなしをしている人が多くあれど私の1番はこの写真だった。凄い。凄すぎる。

自分のなりたいイメージを理解していて、顔や身体の個性を活かした着方を選択できている。

本人の好みであろうが、それでいてこの馴染んだ、なんというかリラクシーな感じはどうだ。

まあどうせ本職はモデルかなんかなのだろうが(投げやり)、ぶち抜いて優勝。

自己理解および造形が深すぎる。

 

おそらく、っていうかここに書くまでもなく明確に、巷ではヒップホップ系や締め付けのないシルエットのカジュアル等、カジュアルな洋服が流行っている。

というか今時いないよね。私服でスーツセット着る人。

でも難儀なことに私はコンサバな服が好きだった。

それも「こなれた服」とかじゃなくて本当に格式の高い、準正装にちかいもの。

 

ずっと前にどこかでツイートしたことがあるが、「いつか自前のセットアップのスーツをフルオーダーで仕立てるぞ」と。ずっとそう思っていた。

 

それもどちらかというとスカートよりパンツがいい。上で述べた水原希子のスーツなんか最高だね。

そういうかっちりとしたスーツやフォーマルな服が好きだった。

男性っぽい着こなしもまたスーツ好きとして憧れる。

男性に寄せた女性のスーツスタイルの先駆けツイッギー↓(先駆けにして最高峰)。

 

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1960年代から女性ファッションにスーツが台頭した

 

コケティッシュな女性が男性的かつタイトな服をまとうのがいい。

ところで次は「正真正銘」男性用スーツの着こなしの話だ。

 

④「ララランド」ライアンゴスリングのスーツ

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これもネットから借用。

映画ララランドの衣装だ。結構最後のシーンだった気がする。

チョコレート色。といってもミルクっぽいチョコレートだ。まろい感じの茶色。

 

いいか諸兄フォーマル洋装の小物…シューズにカバンにボストンに..質がよく永く使えるものそれ即ち本革だ。というかそれ以外考えられない。

というか私のカウンターは全て受け付けられない。それ以外の素材はお引き取りください。

 

本革は総じてアースカラー、土や動物のイエロー系統、そうブラウンである。青みはそこに干渉しないのだ。

 

よってグレーやネイビー系統のスーツも非常に格好いいものなんだけれども、統一感においてブラウンにまさるスーツは有り得ないのだ。はい、お引き取りください。

 

かなり強火で語った。

しかし勿論正装ではこんな明るい茶色は認められないだろうし、基本的には落ち着いた濃い青みっぽい色が重用されるだろう。

 

ロマンが!!あるのですよ茶色には!!

 

まとめ

というわけで沖野の独断で選ぶ「モード×シックの洋服4選」だった。

ご理解いただけただろうか。

まあ結構偏った趣味だからね。理解されるかちょっと確率ひくいだろうな。

そう思ってる。

 

さて最後にネットサーフィンをしていたときに見つけたコンサバ風の女性のスナップを紹介して締めくくる。

共感したらコメントしてくれー

 

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熱き芸術のコミュニティという浪漫。「文学カフェ ブルジョワ文化の社交場」

 

 

 

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今回の本と評価

 

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文学カフェ ブルジョワ文化の社交場

「文学カフェ ブルジョワ文化の社交場」

著者‥菊盛英夫

出版社‥中央公論新社

 

面白度 ☆☆

読みやすさ ☆☆

テーマの深さ ☆☆☆☆

こんな気分のときに読みたい:文化社会学の本が読みたいとき、ヨーロッパの知識人の歴史を知りたいとき

 

「文学カフェ ブルジョア文化の社交場」はどんな本なのか

残念なことに今本が手元にない。

記憶が大変曖昧で、この本はたしか古本屋で買ったと思っているのだが時期も値段も記憶にない。場所は神保町だったような…2年前、友達の女性と神保町のレンタルショップ「ジャニス」の閉店最終日を冷やかしに行った日のことだったか…。わからんが。だとしたら2年前である。

 

かつ情けないことに内容を最後まで読んでいない。

今なおパリの街角に残るカフェの歴史を

物語る異色の文化史

上の画像にもあるが大体こんな内容である。(雑)

タイトルが非常によく内容を述べているのではないか?

「昔のパリのカフェで文学活動の拠点になったコミュニティをお題目に、近世ヨーロッパ芸術の歴史をさらう」

みたいな内容だったはずだ。大変おぼろである。

 

カルチェラタン」という区域がパリにはあって、時折名前を耳にする人もいると思う。

スタジオジブリコクリコ坂から」の舞台になった学生会館の名前もカルチェラタン

映画で私はこの単語を知り、なんだかロマンがあるとずっと思っていた。

 

 

文化人の集うカフェというのに憧れる

沖野はなんだかんだ高校をやめ、しばらく北海道の離島でアルバイトをしていた。

職場は礼文島にあった。

ユースホステルの、「桃岩荘」という宿のスタッフをしていた。

 

変わった場所が日本にはいっぱいある、という事実を知ったのはそのときである。

はぐれ者をはじめ、初対面の者同士でいろんな話ができる。桃岩荘はまさに「コミュニティ」の場所だった。

 

あんまり東京にはない。いや、正しくいえばあるにはあるのだ。企業だったり、サークル活動だったり、あるいは商店街のコミュニティだったり…。おそらく東京だと企業が多いんじゃないかな。

カフェとバーもそういう場として多いと思う。

 

しかし中学生、それも私立の学校に通い成績を気にして一生懸命親に怒られていた私のような中学生にはそういった場に縁を持てなかった。

 

まあ当然である。

 

私は昔から、哲学と音楽に関心があった。

そして色んな考え方の話を友達や周りの人としたかった。

 

体系的に物事を考えることが好きだった。それから、悩み事を相談し、相談の相手から新しい気付きと考え方を吸収する会話がしたかった。

 

いつも探していた。そして、桃岩荘によって(亜種ではあるが)実際にディープな"コミュニティ"というものが世の中にある、という事実を知った。

そこで思いついたのが「いつか自分もコミュニティをつくる」であった。

 

ここで、話は先に述べた「カルチェラタン」につながっていく。

文壇の関係者が集まって、関心事や議論を戦わせる熱気ある場はまさに私の理想だった。

wikipediaカルチェラタンの項目をネットで読み漁っては、素敵だなとわくわくした。

 

 

リアル「文学カフェ」を実現させる方法

題目なので見出しにしたが、全然答えは出ていない。

リアル「文学カフェ」を実現させる方法?おい、私が知りたいよそれ。

 

とにかくマネタイズ(利益出す仕組み)と客としてリピートしてくれる層を掘り当てる手段が難しい。

哲学や理屈っぽい議論を日常的にできる人間(複数)…。それも初対面同士…。

 

また、「理屈っぽい話を今から!やりましょうね!!」みたいに鼻息荒く意気込む会話ではなく、自然と会話の流れではじまる化学反応のような会話、理屈っぽい会話…。

それを成り立たせるのが本当に難しい。

 

そもそも当然の話なのだが、初対面で自分の関心ごとばかり話し、なおかつそのテーマが哲学、という人間に出会ったことがない。

 

左脳で生きてくれよ!!人類よぉ…!

 

 

切実な、大変切実な悩みだが、まあ長い時間をかけて解決していくしかない。

 

(いいんだよみんな自分の悩みとかコンプレックスとか気にせず真面目に話してもらって…少なくとも沖野の前では…悩みは他人に話す習慣はないって人は気になってる、「生産性はまったくないけど頭を占める疑問や関心事」の話をしてくれよ…気付きの話をしてくれよ…んでもってそれをさらに、相手の考えを深めるところまで持っていこうよ…)

 

ない餅に紅付けをしているような話である。言いたい放題してごめん。

 

まとめ

薄々気がついているだろうか?

そう、構成やテーマなどなく文章を思いつくまま書いてしまっているのである。

 

ブログを付ける習慣を付けよう、と思っていて、そのために軽ーい文章を書いている。

少なくとも自分の関心事と内心には正直に向き合って書いている。嘘とかは付いてない。

 

書き続けていくうちに精度が上がって面白くなっていくと思う。

 

今回は好きな会話について書いたけど、ご飯とか料理系エッセイの話とかも書きたいな…。インスタでみた美味しそうな自炊メシの話とかしたい。

 

なまあたたかい目で見守ってほしい。よろしく。

 

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みんな大好きドラえもんが「のび太をあったかい目で見守る」様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メンヘラビッチは恋愛成就の夢を見るか?

 

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今日は漫画である。2冊紹介する。

 

今回の本と評価

 

 

[1作目]

 

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スイートハート・トリガー

「スイートハート・トリガー」

著者‥ニャンニャ

出版社‥竹書房

www.amazon.co.jp

 

面白度 ☆☆

読みやすさ ☆

テーマの深さ ☆

こんな気分のときに読みたい:過激な漫画が読みたいとき

 

 

[2作目]

 

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人間観察同好会



「人間観察同好会」

著者‥日乃チハヤ

出版社‥茜新社

www.amazon.co.jp

 

面白度 ☆☆☆

読みやすさ ☆

テーマの深さ ☆

こんな気分のときに読みたい:イケメンが見たいとき 

 

 性懲りもなくまたBLである。すみません。

ほんとすみません。

またタイトルにあるようにメンヘラかつビッチな登場人物のいる作品を選んだ。

タイトル通りいくと恋愛成就の夢を見ないことになるのだろうが、新海誠作品でもあるまいし商業BLなので成就する。安心してくれ。

 

 

「人間観察同好会」と「スイートハート・トリガー」はどんな本なのか

まずは1作目「スイートハート・トリガー」。あらすじを抜粋しよう。(文庫背表紙より引用)

根暗なゲイの大学生・コールは、隣人・アレックスに片想い中。
女子にモテまくるアレックスを、コールは遠くから見つめ自慰に耽るだけの日々だった。
ある時、ひょんなことからアレックスとの距離が縮まり舞い上がるコール。
アレックスが参加するコスプレパーティーに乗り込み、勢い余って想いを告白するが───モテ慣れたアレックスに軽く受け流されてしまう。
傷ついたコールは、アレックスに愛情と裏腹の怒りを抱き始め…。
注目の新鋭・ニャンニャの描く青春BL新境地!! 

 

 

続いて2作目の「人間観察同好会」である。

あらすじを抜粋しよう。(文庫背表紙より引用)

人間観察同好会のお飾り会長:寿 明彦。

本人はいたって真面目に活動しているのだけど、会員数はどんどん減り続け、ついには同好会存続の危機に!!

そんな中でも寿と一緒に同好会活動を続ける後輩:塩見にはある目的があり――

また帯より一部を引用する。

だれも先輩なんかに興味ないし、見てないんで。

俺くらいなもんっすよ。

そんな"もの好き"は…

 

 

メンヘラビッチは恋愛成就の夢を見ることができるか。

さてまずは一作目、「スイートハート・トリガー」からである。

 

 

俺を殺してお前も死ぬ!

拳銃を構える受け

ヤミヤミの実でも食べたのか?主人公コールはとても病的である。

心も病んでいれば体も病んでいる。

白くて細い。栄養を取ってなさそうなことが分かる。

 

↓作品内で登場するコールの描写 

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そしてまた大変危険思想なビッチなのである。ビッチかはともかく。

作中より引用する。ネタバレ注意。

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オレは

オマエか自分に

銃を向ける以外

オマエを手に入れる方法がわからない

 

大変展開が良い。

コールの彼氏はアレックスというノンケ。

コールは浮気を疑うが、

アレックスはコールに浮気をしていない。

この直前にことが分かり、解決。

二人は不安定ながらも関係が続く…というストーリーだ。

 

ちなみに、「スイートハート・トリガー」には続編がある。

(「スイートハート・トリガー2」)

 

2作目では時間が進む。

同棲を始めた二人。だがアレックスがきちんとしていると気付くコール。性格もよく完璧なアレックスと付き合っていくことにコールは悩む、という内容だ。

 

ここでもコールくんの攻めアレックスへの執着と愛が大きい描写がたくさんあり、とても納得できる回となる。

 

 

さて、長くなってしまった。

続けて「人間観察同好会」である。

 

 

歪んだ攻め様 執着の理由は"かわいそうな人"

 

塩見は大学2年生。

ああかわいそうな人だこの人、

と思ったが最後相手にねっとり執着する、歪んだ性質の持ち主。

 

執着の相手は寿先輩。受けである。

受けの寿は「人間観察同好会」の部長だ。

「人間観察同好会」は大学のサークルである。

「人間観察同好会」は実質ただの飲みサークルである。部員は大勢いて、主な活動内容は飲み会の主催だ。

そんな中寿は部員として周りを観察するように努める。非常に真面目である。

しかし人に積極的に話しかける勇気がなかった。なので友達がいない。

いつも誰からも関心を持たれない。不憫な人なのだ。

 

そんな寿くんに気付いた後輩の塩見。

塩見は寿を観察するようになる。

塩見が寿に気付いたきっかけはある日の飲み会のことであった。

後輩の女の子が寿に唯一話しかけてきたのだ。

酔って体調を崩す寿にハンカチを貸してくれる後輩。

結果寿は一瞬で惚れてしまった。

その様を見た塩見は寿が気になり始める。

 

以下作中より引用する。

塩見ー、(略)

なんか面白い話ねえの?(略)

面白いヤツとかさ

 

 

塩見はバイト先の先輩に聞かれて、こう答える。

 

面白い…先輩がいるんですけど…

(バイト先輩「ほう」。)

 

(略)

長縄とびで入れない人みたいな…

(略)

 

ずっとそんな感じで…

この人、だれにも気づいてもらえないまま

これ 一年間続けてきたんだと思うとなんか不憫で

更に面白くなってきちゃって…

 

 

性癖が垣間見える瞬間である。

(これに対しバイトの先輩は「わっかんねぇ…」と内心つぶやいていた)。

 

 

塩見はメンヘラの部類ではあるかもしれない。

しかし「スイートハート・トリガー」コールのように極端な性格ではない。歪んでいるが一般的な方だ。

探せばこのタイプの人は友達にもきっといる。

 

つまり、

情けなく失態を晒す知り合い(先輩)に対して快感と嘲笑を覚えるタイプ。

またそのことからつい相手をじっくり観察したくなってしまう。そんなタイプだ。

 

一応、作中では導入から入り、身体の関係を持ち、結局執着しつつも恋愛対象としてお互い惹かれる。という流れだ。

 

この執着も、一種のコンプレックスに思われる。

コンプレックスには一応元の意味がある。「衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体」である。(Wikipedia参考)

 

誰からも深い関わりを持たれない寿くん。

そして寿に塩見は深い執着と関心を抱く。

そういうカップルだ。かなり歪んでいる。

歪んでいる。

しかも二人は最後まで塩見と寿は愛ではなくそのコンプレックスで関わるだろう。

と私は思っている。

ただ、二人の関係は若気の至りではない。塩見は自分の感情をよく分かっている。

それは正しく恋愛感情だ。

きっと長い時間恋人でい続けるんじゃないか。

おそらくは寿くんが定期的に反発し(「こんなの普通じゃない」等)、塩見くんが押さえ込むんじゃないか?イメージではあるけど。

ドラマが欠かせないカップルである。

 

 

 

最後にまとめ。

 

 

メンヘラビッチはマイノリティドラマのお約束

 

メンヘラは作者からすると大変魅力的だ。読者は読むとぞわぞわする、また深みが加えられる。ドラマの登場人物の個性はコンプレックスに出るものだ。

 

(深淵をのぞくときまた深淵もお前を、のぞいているのだ…)。

 

ってね。しかし深淵だと大袈裟か。ねじれというものは一様にある。私にもあれば皆んなにもある。

 

メンヘラものの作品は、マイノリティであればあるほど共感が深くなる。

またマイノリティでなくとも、読むとき快感があり関心が引かれるものと思う。

 

メンヘラは大切だ。もちろん、場合によってはビッチであることもBLの作品には大切であるかもしれない。

 

恋愛成就の夢を見るか?見るのである。そもそもが恋愛に憧れるのだ、メンヘラは。

 

ふたつとも大変いい作品だ。

読めば、あなたも面白い人物描写とぞわぞわと快感に楽しくなるだろう。

 

 

 

 

あ……

もちろんBLではあるので注意、な。

 

 

「異邦人」は本当に変だろーか、って話

 

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今回の本と評価

「異邦人」

カミュ : 異邦人 (新潮文庫) | Sumally (サマリー)

著者‥カミュ

出版社‥新潮社

 

面白度 ☆☆☆

読みやすさ ☆☆

テーマの深さ ☆☆☆☆

こんな気分のときに読みたい:世の中を勉強したいとき、

難しい本が読みたいとき

 

「異邦人」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(文庫背表紙より引用)

母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、

映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について

「太陽のせい」と答える。

判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、

処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。

通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。

 

カミュの代表作である。

カミュについては最近、感染症コロナウイルスの関係で「ペスト」が話題になった。そのため知っている人もいるかもしれない。

 

私は内田樹という人の本を読んでいた。そのときに著者が本作を紹介したことから「異邦人」を知った。

彼曰くこの本は「父の不在を描こうとした作家の奮闘である」とのことである。

内田樹村上春樹について書いていた。その本の中で紹介されていたのである。

 

アルジェリアで死んだ母を見送る男ムルソー。彼はイカれた男なのか?

 私は怒っている。

本編でムルソーが処刑されたことにである。

また、

ムルソーが裁判所で、検事に断罪されたことにである。

裁判の聴衆が誰も彼を理解しないことにである。

青い目の青年がムルソーを眺めたことに、姿勢のいい女が同じく彼を眺めたことにである。

 

彼は異常ではない。

彼は異常であり、そしてまた私も異常である。

社会で彼は異常であり、主観にて彼は正常である。

社会では読者含めみな正常であり、そしてみな心のうちでは異常なのである。

 

今回私だけが社会で異常であるということは考慮しない。

 

家に帰ればみな、あたたかいベッドの中で異常に自分のことをあたためる。そして包んでいる。

 

上記に引用した背表紙から「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求した」と書かれている。

通常の論理的な一貫性が失われている

 

 シリアルキラー はみんなサリンジャーを読んでいる

 

ここでサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を反復したい。

wikipediaには「社会への影響」という項がある。

実際この本は「学校や図書室から追放され」たし、またあるネットの記事では「シリアルキラーの犯罪者はライ麦畑を愛読している」らしい。そう読んだことが過去にある。

 

wikipediaより引用する。

ホールデン(略)考えた末、自分がなりたいのは、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、崖から落ちそうになったときに捕まえてあげる、ライ麦畑のキャッチャーのようなものだと言う。

 

"

「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」

"

 

気持ちが分かる。シリトーの「長距離走者の孤独」を思い出した。

私は吉田寮を思い出した。

 

そこには女だか男だか分からない、見かけは明らかに男、肩の出た汚い布の寸胴服を身につける、胸がふくらんでいる。髪の毛は黒、細くて傷んだ長い毛が宙を舞って振り乱される。彼は踊っているのだ。頭を振り乱し、おそらくヘッドホンをつけて、裸足もしくはサンダルで踊っている。

顔はアジアの、ぱっと見た風ではアジアの南の方の人のような顔をした男ないし女。

 

踊っているのだ。

 

いつか、私も踊っているのだと思ったことがあった。彼と同じで踊っている。

何も身よりがない、何とも分からないと思った時期だった。

社会から見つけてもらうことはない、見つけてもらうのではなく溶け込めることもない。踊っているのだ。踊るのだ。

 

それは単に私一人の感覚と情感だった。

 

異邦人本文より引用する。

「そのとき、神様があなたを助けて下さるでしょう。(略)」

 

私はよくエマニュエルとかセレストとこの遊びをしたものだ。たいてい、彼らは眼をそむけてしまった。司祭もまたこの遊びをよく知っていたのだろう、私にはすぐそれがわかった。彼の視線は震えなかったからだ。

そして、「それではあなたは何の希望ももたず、完全に死んでゆくと考えながら、生きているのですか?」と彼は尋ねたが、その声もまた震えなかった。「そうです」と私は答えた。

(略)

 

 司祭はかなり長いことわきを向いたままでいた。彼の姿が私には重荷になり、私をいらいらさせていた。

(略) 

「いいや、私はあなたが信じられない。あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」もちろんだ、しかし、金持ちになったり、早く泳いだり、形のよい口許になることを望むのと同じように、意味のないことだ、と私は答えた。

 

(略)

しかし、あなたの心は盲いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」

そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。

 

これが本編で最後に出てくるムルソーに「迫る人」のシーンである。

新潮文庫の背表紙がなんかしっくりこない。もちろんそもそもがスタンスとして違うが、微細にも違うなと思うのである。

二つである。映画を見て笑いころげていないし、その直後の文にある友人は、友人ではない。

 

みんな自分の聖域を持っている。

理由なく狂ったように草原で歌を歌いたくなるときがある。

分からないけれど爪を噛んだり、樽につめられて海に流され始めようとする時がある。

 

ムルソーにとっては「人間の法」で裁かれる「殺人」それが罪なのであり、母の死に感動しなかったことや映画を見に行ったことは問題ではない。

 

村上春樹は何だか知らないけど「物語」で変化を起こさない

アメリカ文学の小説もそうだが、大体「最後にみんなハッピー」みたいな事が起きず、暗い。

そして淡々と自分の「特性」に従って自分を貫くだけの行動をするのだが(そして大抵主人公は人と違う変わった癖を持っているものだが)、作中で特性は一貫して変わらず、その特性を貫く結果として物語で外との関係が変化する、といった印象を受ける。

 

「異邦人」のムルソーもそのアメリカ文学の特徴に似ている気がする。

 

しかし村上春樹の作品はそれに輪をかけて物語の変化、というものが起きない。

 

主観だが、友人に「人との関わりのない真っ白なだけの空間で一人で"

居る"だけの実在をしている」という印象を受ける人がいる。

それと似たようなことを感じたときが、以前自分の中にあった。

そこでは「何も変わらず・動かず、外である社会のような輪郭と近くにある(stand)

しては居るけれども何も、永久に接することはないと断言でき」、もっと実直に伝えられることだがそこに「時間はない」。みたいなことを感じていてボーッとするときがあった。

 

それを、感じているその最中に父親に説明したところ、彼曰く「村上春樹に似ている、それを知っているのは自分の中では村上春樹である」といっていた。

 

たしかにそれはとても村上春樹の作品と似ているように思う。

アメリカ文学はそもそも変化なく特性を貫いて終わるが、それでも一応「外」の世界と交わるし「外」の世界は変化する。

対して村上春樹は、ずうっと停止をしているように思う。

一応小説の中で現実世界のような設定と登場人物の属性付けはある。だが「皮を被っている」ようにしか思えない、つまり"現実世界を舞台にした小説"の殻をである。

 

「邪悪なものの鎮め方」という本を書いた内田樹が、「村上春樹作品は"父不在"の物語を書こうとした作家である」と述べていた。

もちろん前後に「異邦人」も同様だと触れている。 

 

父不在の主張は特に「異邦人」のなかでの司祭とのやり取りのページに顕れていると思う。「あなたのために祈りましょう」という司祭に対してムルソーはその返事で否定をしている。

 

まとめ

実際、上に挙げた、アメリカ小説またカミュと、村上春樹の作品は私たちの現実にとても似ていると思う。

小説の中で主人公が嬉しい出来事に触れて人として変化をすることは読者として親しみが持てるが、実際、「読者」である私たちの世界でそんなことはそうそう起きない。

軸があり、幼少から培ってきた価値観を基本に学び、そしてそのまま実践するのである。

実際変化があるようにしても、そうそう「改心」は起きない。(そのように変化することも人によってあるにはあるが)。

どうだろうか。

そのままでいいのある。また、実際ムルソー(や吉田寮の男性やさらに私)のように、「外」など気にせず、聖域を守って自分のままに生きればいいと思う、もちろんほとんどの人が前からそうしているとは思うが。

 

みんなの聖域に幸あればいいと思う。

また、「異邦人」であっても、また「異邦人」に出会っても、ムルソーの友人セレストや婚約者のマリイのように一緒になって暮らしていける人たちになりたい、と、私は思ったのだった。

 

もちろん「思った」気付きそのものも、幼少期からの「軸」に基づく発展だ。

このようにして変化(「改心」)なく歳を重ねていきたい、と、思う。

 

 

「じゃじゃ馬ならし」から見る戯曲のテクニック


青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今回の本と評価
シェイクスピア全集(7) じゃじゃ馬ならし 白水Uブックス7/ウィリアム・シェイクスピア(著者),小田島雄志(著者) 通販  LINEポイント最大0.5%GET | LINEショッピング【公式】



じゃじゃ馬ならし

著者‥シェイクスピア

出版社‥角川文庫

 

面白度 ☆☆☆☆☆

読みやすさ ☆☆☆☆

テーマの深さ ☆☆☆

こんな気分のときに読みたい:笑いたいとき、本格的に読書がしたいとき

 

じゃじゃ馬ならし」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(文庫中表紙より引用)

所はイタリアのパデュア。その町にかくれもないじゃじゃ馬娘キャタリーナは家中の悩みの種。そこへあらわれたのは彼女を上廻るような癇癪持ちのヴェローナの紳士ペトルーチオ。彼との否を言わせぬキャタリーナは息も絶え絶えな目にあう。結局、荒馬は調教され、めでたく里帰りには貞淑、従順な婦人に生まれ変わるという喜劇。

 私の読んだ文庫で本文は160ページ。短い。*

あらすじ通りシンプルなストーリーで、簡単に読める。

*ちなみに戯曲としては長い。

 

インダクション〜枠物語〜

以下はWikipediaからの引用である。

しばしば「インダクション」と呼ばれる導入部分がついた枠物語としてはじまる芝居であり、~(以下略)

じゃじゃ馬ならし - Wikipedia 

 

インダクション〜枠物語〜ってラノベありそう。しかし単なる技法の用語である。

 

ちなみにひとつ前のブログで紹介した「熱帯」もまた枠物語である。

枠物語とは

導入部の物語を外枠として、その内側に、短い物語を埋め込んでいく入れ子構造の物語形式である。

「熱帯」はその大きな特徴に枠物語、「入れ子構造」を持っている。

冒頭から作者森美登美彦自身のリアルの回想から始まり幕が上がる。

 

それは熱帯のテーマそのものに相応しく、錚々と始められる。

 

一方、じゃじゃ馬ならしでは実に自然な導入だ。

領主がふざけて、呑んだくれを「真の領主」として騙る。

「真の領主」として気が付いた呑んだくれと奥方が、領主によって用意された劇を観はじめる。幕が開き劇がはじまった..という寸法である。

 

インダクションは劇の本編前のやり取りである。 

それが本当に面白く、まったくリアルで緊張のない呑んだくれ節なのだ。

文庫より引用する。

スライ:よし、見物しよう。やらせてくれ。----おい、その喜楽ってえのは、クリスマスの馬鹿踊りかね、それとも軽業のことかね?

小姓:いえ、殿。もっとずっと楽しい代物でして。

スライ:代物ってえと、家財道具かね?

小姓:いえ、まあ筋のある物語とでも申しましょうか。

スライ:まあいいや、

とにかく見物といこう。さあ、かかあの奥、おいらのわきに。へ、なにをくよくよ川柳柳、おたがい若いうちが花てえことよ。

 

(小姓、スライのそばに坐る。ラッパの吹奏。『じゃじゃ馬ならし』がはじまる)

 

思うにこの、インダクション部分の「やり取り」も内容が濃く、それだけで一本劇が完成しそうな内容だからこそ面白いのだと思う。

あまりにいい設定で読者はみな一様に引きつけられ、ついでに始まった劇を自然に「スライ」と一緒に観劇する気持ちになる…というのが良さではないだろうか。

 

どの幕でも「傍観者」がそこにいるシェイクスピア

ここが本題である。

私はこれまであんまり戯曲を読んだわけでもないが、本作は他の劇に比べてすばらしい一つの特徴がある。

もちろん言葉遊びや、恋に対する壮麗な字句もそうなのだが、ひとつは常に「傍観者」が立って眺めているということだと思う。

 

例えばこうだ。

ルーセンショ:このパデュアではやがて友達もたくさんできようが、客としてもてなすにも適当なところが欲しいな。

おや?-----おい、あの連中はなんだろう?

 

(略)

グレミオ:結婚よりも異議を申し込みたいよ。わしには手ごわすぎるて。

どうだ、ホーテンショ、あなたは若いからいいだろう?

 

キャタリーナ:お父様にうかがいますが、なんでこの私をこんな虫けらの前でさらしものにするんですか?

 

ホーテンショ:え、虫けらだって!なんてことを言うんだ。

 

(略)

ルーセンショの従者:(小声で)こいつはおもしろくなってきましたぜ。あの娘、気がふれてるんですかね。あれで正気ならとんでもないじゃじゃ馬だ。

 

(以下略)

 ちなみに上記が"じゃじゃ馬娘"キャタリーナの当劇での第一声である。ちなみに私はキャタリーナが大好きだ。

 

このようなシーンが「じゃじゃ馬娘」にはたくさん出てくる。

「当人-傍観者<観客」という構図だ。

ちなみに「当人」の中にも「きちんとしている人,間抜けな人,勘違いして場を混乱させる人」が必ず混じっている。

これもとても大事なところで、これがないと喜劇は完成しないと思われる。

(つまり「間抜けかつ下品な冗談」と「勘違い」と「ハイレベルな言葉遊び」で喜劇は成り立っている。)

 

さらに留意してほしいのが、上記の「当人-傍観者<観客」という構図になるときの流れだ。

この場合、必ず直前に「当人」がひと演技している。主体的にシーンをつくっている。

つまり、舞台の中心に「当人」のみが登場するシーンがあってその直後に当人は「傍観者」へと切り替わるのだ。ちょうど上で引用したキャタリーナ登場のシーンが同様である。

 

このことにより、最初から「傍観者と当人」のみの情景よりも客が劇に入り込みやすくなる。

そう。後に「傍観者」となる人物たちも一度「当人」になる。よって観客は傍観者を「当事者」として意識しやすくなるのだ。

 

まとめ

私はこの本を読んで、この本「じゃじゃ馬ならし」が大好きになった。

本編は「男子」が「女子」を調教するという酷いものであり、検索すると「*ミソジニー」等批判の言葉がいっぱい出てくるが、どうでも良いくらい掛け値なしに面白い。

*ミソジニー女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のこと。

ミソジニー - Wikipedia

 

以前のブログで

例えば大昔の日本小説を読むと当たり前のような男尊女卑にでくわした、としよう。

特筆したいがその場合、作者はそれを「自分の価値観の範疇だと思っていない」。

その事に気づいた瞬間、物語は醒める。

 

と書いたが、あれはあまり本に没入できるかということに関係がなかったと気付いた。

 

いくら時代錯誤でも、ずば抜けて面白い作品に引き込まれたら関係ないのだと思う。本当に面白いのだ。そうなったら何も目に入らず、客観的に批判することも出来ず、ただただ身を震わせて脳に刺激を感じることしか出来ない。

 

みんなも読んでみて。

それから、(シェイクスピアが面白くなくても)それぞれが身を震わせるほどに面白い作品があったら沖野に教えてほしい!

 

…まあ以前も書いた。

「名作」個人そのものの体験・固有の体験なので、もしかしたら分かち合えないものなのかもしれないけど。

 

 以上'「じゃじゃ馬ならし」から見る戯曲のテクニック'、でしたっ!