青春へのサーチライト沖野です。
それでは今日も元気にいってみよう。
今回の本と評価
「異邦人」
著者‥カミュ
出版社‥新潮社
面白度 ☆☆☆
読みやすさ ☆☆
テーマの深さ ☆☆☆☆
こんな気分のときに読みたい:世の中を勉強したいとき、
難しい本が読みたいとき
「異邦人」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(文庫背表紙より引用)
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、
映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について
「太陽のせい」と答える。
判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、
処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。
カミュの代表作である。
カミュについては最近、感染症コロナウイルスの関係で「ペスト」が話題になった。そのため知っている人もいるかもしれない。
私は内田樹という人の本を読んでいた。そのときに著者が本作を紹介したことから「異邦人」を知った。
彼曰くこの本は「父の不在を描こうとした作家の奮闘である」とのことである。
内田樹が村上春樹について書いていた。その本の中で紹介されていたのである。
アルジェリアで死んだ母を見送る男ムルソー。彼はイカれた男なのか?
私は怒っている。
本編でムルソーが処刑されたことにである。
また、
ムルソーが裁判所で、検事に断罪されたことにである。
裁判の聴衆が誰も彼を理解しないことにである。
青い目の青年がムルソーを眺めたことに、姿勢のいい女が同じく彼を眺めたことにである。
彼は異常ではない。
彼は異常であり、そしてまた私も異常である。
社会で彼は異常であり、主観にて彼は正常である。
社会では読者含めみな正常であり、そしてみな心のうちでは異常なのである。
今回私だけが社会で異常であるということは考慮しない。
家に帰ればみな、あたたかいベッドの中で異常に自分のことをあたためる。そして包んでいる。
上記に引用した背表紙から「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求した」と書かれている。
通常の論理的な一貫性が失われている
シリアルキラー はみんなサリンジャーを読んでいる
ここでサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を反復したい。
wikipediaには「社会への影響」という項がある。
実際この本は「学校や図書室から追放され」たし、またあるネットの記事では「シリアルキラーの犯罪者はライ麦畑を愛読している」らしい。そう読んだことが過去にある。
wikipediaより引用する。
ホールデン(略)考えた末、自分がなりたいのは、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、崖から落ちそうになったときに捕まえてあげる、ライ麦畑のキャッチャーのようなものだと言う。
"
「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰もって大人はだよ――僕のほかにはね。で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしかないね。馬鹿げてることは知ってるけどさ」
"
気持ちが分かる。シリトーの「長距離走者の孤独」を思い出した。
私は吉田寮を思い出した。
そこには女だか男だか分からない、見かけは明らかに男、肩の出た汚い布の寸胴服を身につける、胸がふくらんでいる。髪の毛は黒、細くて傷んだ長い毛が宙を舞って振り乱される。彼は踊っているのだ。頭を振り乱し、おそらくヘッドホンをつけて、裸足もしくはサンダルで踊っている。
顔はアジアの、ぱっと見た風ではアジアの南の方の人のような顔をした男ないし女。
踊っているのだ。
いつか、私も踊っているのだと思ったことがあった。彼と同じで踊っている。
何も身よりがない、何とも分からないと思った時期だった。
社会から見つけてもらうことはない、見つけてもらうのではなく溶け込めることもない。踊っているのだ。踊るのだ。
それは単に私一人の感覚と情感だった。
異邦人本文より引用する。
「そのとき、神様があなたを助けて下さるでしょう。(略)」
私はよくエマニュエルとかセレストとこの遊びをしたものだ。たいてい、彼らは眼をそむけてしまった。司祭もまたこの遊びをよく知っていたのだろう、私にはすぐそれがわかった。彼の視線は震えなかったからだ。
そして、「それではあなたは何の希望ももたず、完全に死んでゆくと考えながら、生きているのですか?」と彼は尋ねたが、その声もまた震えなかった。「そうです」と私は答えた。
(略)
司祭はかなり長いことわきを向いたままでいた。彼の姿が私には重荷になり、私をいらいらさせていた。
(略)
「いいや、私はあなたが信じられない。あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」もちろんだ、しかし、金持ちになったり、早く泳いだり、形のよい口許になることを望むのと同じように、意味のないことだ、と私は答えた。
(略)
しかし、あなたの心は盲いているから、それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」
そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。
これが本編で最後に出てくるムルソーに「迫る人」のシーンである。
新潮文庫の背表紙がなんかしっくりこない。もちろんそもそもがスタンスとして違うが、微細にも違うなと思うのである。
二つである。映画を見て笑いころげていないし、その直後の文にある友人は、友人ではない。
みんな自分の聖域を持っている。
理由なく狂ったように草原で歌を歌いたくなるときがある。
分からないけれど爪を噛んだり、樽につめられて海に流され始めようとする時がある。
ムルソーにとっては「人間の法」で裁かれる「殺人」それが罪なのであり、母の死に感動しなかったことや映画を見に行ったことは問題ではない。
村上春樹は何だか知らないけど「物語」で変化を起こさない
アメリカ文学の小説もそうだが、大体「最後にみんなハッピー」みたいな事が起きず、暗い。
そして淡々と自分の「特性」に従って自分を貫くだけの行動をするのだが(そして大抵主人公は人と違う変わった癖を持っているものだが)、作中で特性は一貫して変わらず、その特性を貫く結果として物語で外との関係が変化する、といった印象を受ける。
「異邦人」のムルソーもそのアメリカ文学の特徴に似ている気がする。
しかし村上春樹の作品はそれに輪をかけて物語の変化、というものが起きない。
主観だが、友人に「人との関わりのない真っ白なだけの空間で一人で"
居る"だけの実在をしている」という印象を受ける人がいる。
それと似たようなことを感じたときが、以前自分の中にあった。
そこでは「何も変わらず・動かず、外である社会のような輪郭と近くにある(stand)
しては居るけれども何も、永久に接することはないと断言でき」、もっと実直に伝えられることだがそこに「時間はない」。みたいなことを感じていてボーッとするときがあった。
それを、感じているその最中に父親に説明したところ、彼曰く「村上春樹に似ている、それを知っているのは自分の中では村上春樹である」といっていた。
たしかにそれはとても村上春樹の作品と似ているように思う。
アメリカ文学はそもそも変化なく特性を貫いて終わるが、それでも一応「外」の世界と交わるし「外」の世界は変化する。
対して村上春樹は、ずうっと停止をしているように思う。
一応小説の中で現実世界のような設定と登場人物の属性付けはある。だが「皮を被っている」ようにしか思えない、つまり"現実世界を舞台にした小説"の殻をである。
「邪悪なものの鎮め方」という本を書いた内田樹が、「村上春樹作品は"父不在"の物語を書こうとした作家である」と述べていた。
もちろん前後に「異邦人」も同様だと触れている。
父不在の主張は特に「異邦人」のなかでの司祭とのやり取りのページに顕れていると思う。「あなたのために祈りましょう」という司祭に対してムルソーはその返事で否定をしている。
まとめ
実際、上に挙げた、アメリカ小説またカミュと、村上春樹の作品は私たちの現実にとても似ていると思う。
小説の中で主人公が嬉しい出来事に触れて人として変化をすることは読者として親しみが持てるが、実際、「読者」である私たちの世界でそんなことはそうそう起きない。
軸があり、幼少から培ってきた価値観を基本に学び、そしてそのまま実践するのである。
実際変化があるようにしても、そうそう「改心」は起きない。(そのように変化することも人によってあるにはあるが)。
どうだろうか。
そのままでいいのある。また、実際ムルソー(や吉田寮の男性やさらに私)のように、「外」など気にせず、聖域を守って自分のままに生きればいいと思う、もちろんほとんどの人が前からそうしているとは思うが。
みんなの聖域に幸あればいいと思う。
また、「異邦人」であっても、また「異邦人」に出会っても、ムルソーの友人セレストや婚約者のマリイのように一緒になって暮らしていける人たちになりたい、と、私は思ったのだった。
もちろん「思った」気付きそのものも、幼少期からの「軸」に基づく発展だ。
このようにして変化(「改心」)なく歳を重ねていきたい、と、思う。