青春へのサーチライト沖野です。
それでは今日も元気にいってみよう。
2020.11.24追記
10/25あたりに途中まで書いた記事だが全然捗らない。
途中で終わっているが一応、あげておく。*マジで短いぞ
今回の本と評価
ひげよ、さらば (理論社の大長編シリーズ) | 上野 瞭, 福田 庄助 |本 | 通販 | Amazon
「ひげよ、さらば」
著者‥上野瞭
出版社‥理論社
面白度 -☆
読みやすさ ☆☆
テーマの深さ ☆☆
こんな気分のときに読みたい:児童向け長編が読みたいとき
「ひげよ、さらば」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(書籍帯ウラより引用)
これは、ナナツカマツカの丘に縄張りを持つ、野良猫たちの叙事詩である。
さまざまな猫たちが織りなす夢と冒険の物語である。
猫たちは、はたして野良猫共同体をつくりうるか。
ハリガネやタレミミのひきいる野良犬たちとの戦い。キバを中心とする野ねずみの群れ。
じいさま蛙やふくろうのじいさま。記憶喪失のヨゴロウザは、さまざまな出会いのなかで、じぶんを確かめようと試みる……。
以上が本作のあらすじである。この本はブックオフより購入した。私は、ブックオフで片手にとり、あらすじを読んで思った。「なんて面白そう!!!」。
また何より今自分の仕事等々に悩んでいたので、アイデンティティの答えが見つかるかもしれないと思って期待でワクワクした。
なんか根本的なところで言うと、この本ではこの「あらすじ」が一番面白い。
本文に夢を与えているのである。
編集者がすごい。
さて、つまりだな、あまり言いたくないのだがつまり、本作は「くそほどつまらなかった」、私にとって。
編集者がすごい。
それではレッツゴーである。
問いには答えを出してほしい、と読者はおねだりする
やっぱ編集者はすごいな、すごいんだよ。
何がっていうと、あらすじ文末の「じぶんを確かめようと試みる……。」、ここだ。
この本、児童向け雑誌の連載だったらしいが、主人公は「試みる」ことを途中でやめるんだよ。恣意的にとかじゃなくて、ほんと、作者の気がフラフラして。「あ、忘れちゃったんだよ〜」みたいなノリで。
主論がどんどん、スライサーにかけられるチーズみたいに、回転しながらずれていく。
著者上野瞭は巻末でこう述べる。
おぼろげな方向だけを見すえて、ともかくスタートしたこの紙の上の冒険旅行は、何度か途中で障害にぶつかった。
いっしょに暮らしていたじいさまの死、次いで、ばあさまの死、それから、義兄の死……ということも、その一つである。
なんとも痛ましい私情と伺える。しかし、著者として提示したテーマにその背景で言い逃れできると思うなよ。
果てしなく、そう、沖野はキレている………。
われわれは、どこから来たのか?そしてまたここはどこなのか?
:to me>沖野へ[タスク-下記の本文引用の修正、主に漢字とひらがな表記の訂正]
本作より冒頭を引用する。
猫のヨゴロウザが最初に気づいたのは、むせかえるような強い水ごけの匂いだった。それは鼻の奥をくすぐり、頭の中にしみとおり、眠っているヨゴロウザをゆすぶった。ヨゴロウザは、目をとじたまま、鼻をうごめかした。すると、ふいに、くしゃみがとびだした。
頭の中に煙がいっぱいつまっている。それが、くしゃみをしたとたん、もわもわとゆれる。ゆれながらうすれていく。うすれていくにつれて、ひやりとした風の気配を感じた。その煙がすっかりなくなった時、ヨゴロウザは、目を開いていた。
すぐそばに池があった。水ごけの匂いは、その池から漂ってきた。池は、青黒くにごっている。風が通りすぎるたびに、水面がきらきらとふるえる。
(おれは何をしているんだろう。どうして、こんなところにいるんだろう。まてよ……)
ヨゴロウザは、じぶんのまわりを見まわそうとして、思わず顔をしかめた。頭の奥に、石の塊が一つはいっている。そんな感じがする。首をまわそうとすると、そいつがごろごろ頭の中をころげる。壁にぶつかるように、頭の中をあっちこっちに走る。ヨゴロウザは、そのたびに、目に涙をにじませてうめき声をあげた。
(いったい、どうなっているんだ。おれは、眠っていたんだろうか。眠っていたとすれば、どうして、こんな、ところに……)
ヨゴロウザは、目をしばたくと顔をしかめた。
池のまわりには、木立があった。その枝葉のあいだから、やわらかい光が、あたりの草むらに降りそいでいた。どこかで、ひばりの鳴き声がした。その声が消えると、息を詰めたような静けさがゆっくりと広がっていった。
与五郎沢、下で自分の花咲を舐めようとした。喉がカラカラに乾いていた。そのせいだろうか、舌を出した途端、不意にあげそうになった。
ヨゴロウザは、自分の口から、よだれが、細い糸のように垂れ下がり、目の前の草に絡まるのを見た。その草の向こうに、ヨゴロウザの体位の太さの木が、1本横倒しになっていた。昆布だらけの、所々皮のめくれ上がった器である。山を越えるように、その未来を背上ってきた小さい黒い虫が、ヨゴロウザの下を不思議そうに眺めると、慌てて姿を消してしまった。
(1.1.1.1……)
ごろ沢、ゆっくり頭を起こした。今度は、頭の中で、石ころが動かなかった。代わりに、誰かが、大きな手で与五郎その頭の中を握り締めたように感じた。喉の奥にも、小さな生き物は詰まっている気がした。つばをはこうとすると、そいつが手足をつっぱり、ヨゴロウザの胃袋の中で片足を入と伸ばした。
ヨゴロウザは、体を膨らませた。ゆっくり体を起こした。それから、黒い小さな虫の消えたあたりを眺め、池の方を振り返った。
(ここは、どこだろう)
全く見覚えのない世界が、ヨゴロウザを取り囲んでいた
(俺の知っている世界じゃない。俺の知っている世界はどこにいったんだ……)
ヨゴロウザは、息を詰めると、もう一度自分の周りを眺め直した。何もかも違っていた。ヨゴロウザは、自分のよく知っている世界を思い出そうとした。騒がしくて、何かが、もっと入り組んでいる世界。臭いだって、こんなのじゃなくて、もっと別の、強い匂いの立ち込めているところ。
(そうだ。俺は、そのよく知っている匂いの中で、いつも眠っていたはずだ。その匂いは、こんなんじゃなくて……)
与五郎沢、そろそろと水際に近づいた。水際から端を突き出すと、ぬるっとした水を作り上げた。舌の先に、息臭が絡み、それを無理やりに飲みこむと、青臭いにおいが戻ってきた。
(もっとひどい匂いだった……)
ヨゴロウザは、何か思い出しそうになった。
(あれは、もっとひどいひどい匂いだったぞ。鼻の奥がしびれるような、もっと嫌な匂いがしたぞ。あれは、何だったのか……)
ヨゴロウザは、吐きそうになって、それを堪えた。今、浮き草を吐き出せば、思い出しそうになっている何かも、どこかへ消えてしまうように思えた。
(あの匂いさえ思い出せば、俺が、どうしてこんなところにいるのか、それもわかるような気がする……
ヨゴロウザは、体を震わせ、水際から端を吐きだした。喉の多くの生き物は、わずかに手足を突っ張った
(……ツーンとして、クラクラっとして……)
頃さは、下の先に別の浮き草を引っ掛けた。それを一気に飲み込もうとした。浮き草は、喉の奥で手足を突っ張っている生き物に絡みつき、ヨゴロウザの息を詰まらせた。ヨゴロウザは、爪の先で、喉のあたりを掻きむしり、体をよじらせた。すると、それは、すぐに、もつれ合って飛び出してきた。
ヨゴロウザは、自分の吐き出した胃液の中に、浮き草が長く伸びているのを見た。
(何も思い出せない。眠っている間に、何があったと言うんだ。俺は、本当に、自分にこんなところまで来たのだろうか……)
声がしたのは、その時だった。
「おかしな猫だな、お前って。いくら首をひねっても、そいつは食える代物じゃないぜ。この辺じゃな、いくら腹が減ったって、河太郎や鶏の水草だけは食わないんだ。」
あらすじの「記憶喪失のヨゴロウザは、さまざまな出会いのなかで、じぶんを確かめようと試みる」にふさわしい荘厳たる出だしである。
嫌な言い方をする。思わせぶりである。
ほとんど全てがメタファーのような言い回しだし、かなり意図して単語を用いている。
これは浅知恵だが例えば「池」は、ミヒャエルエンデの「はてしない物語」終わり部分に登場する「泉」、また上橋菜穂子の「精霊の守り人」の終わり部分にある「出産する際に舞台とされた水辺」と同じく「始まり」の場所と思わされる。
そして文中に「おれは何をしているんだろう。どうして、こんなところにいるんだろう。」とある。これである。
レッドタートルという映画のために谷川俊太郎が書いた詩を紹介したい。
ジブリ特設サイトより引用する。(http://www.ghibli.jp/red-turtle/)
水平線を背に何ひとつ持たず
荒れ狂う波に逆らって
生まれたての赤ん坊のように
男が海からあがってくるどこなのか ここは
いつなのか いまは
どこから来たのか
どこへ行くのか いのちは?空と海の永遠に連なる
暦では計れない時
世界は言葉では答えない
もうひとつのいのちで答える
衝撃の作文だが、もうそこはいい。一旦いい。
そんでもって伝えたいのは、定番のテーマだということだ。基本的なテーマ、根源的で、普遍的で、避けることのない、できないテーマ。
「どこへ行くのか いのちは?」
これは生命の消滅的な意味だけでなく、おのれは、どこへ行くのか、というような意味で捉えてもいいと思う。:to me>要校正
ここはどこ?わたしはだれ?多分ほとんどの人が無意識に考えている。
ここに来て「ひげよさらば」である。主人公猫ヨゴロウザくんである。
更生だが誕生だが知らないが、つまりヨゴロウザは「騒がしくて、何かが、もっと入り組んでいる世界」