青春へのサーチライト沖野です。
それでは今日も元気にいってみよう。
今回の本と評価
「じゃじゃ馬ならし」
著者‥シェイクスピア
出版社‥角川文庫
面白度 ☆☆☆☆☆
読みやすさ ☆☆☆☆
テーマの深さ ☆☆☆
こんな気分のときに読みたい:笑いたいとき、本格的に読書がしたいとき
「じゃじゃ馬ならし」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(文庫中表紙より引用)
所はイタリアのパデュア。その町にかくれもないじゃじゃ馬娘キャタリーナは家中の悩みの種。そこへあらわれたのは彼女を上廻るような癇癪持ちのヴェローナの紳士ペトルーチオ。彼との否を言わせぬキャタリーナは息も絶え絶えな目にあう。結局、荒馬は調教され、めでたく里帰りには貞淑、従順な婦人に生まれ変わるという喜劇。
私の読んだ文庫で本文は160ページ。短い。*
あらすじ通りシンプルなストーリーで、簡単に読める。
*ちなみに戯曲としては長い。
インダクション〜枠物語〜
以下はWikipediaからの引用である。
しばしば「インダクション」と呼ばれる導入部分がついた枠物語としてはじまる芝居であり、~(以下略)
インダクション〜枠物語〜ってラノベありそう。しかし単なる技法の用語である。
ちなみにひとつ前のブログで紹介した「熱帯」もまた枠物語である。
枠物語とは
導入部の物語を外枠として、その内側に、短い物語を埋め込んでいく入れ子構造の物語形式である。
「熱帯」はその大きな特徴に枠物語、「入れ子構造」を持っている。
冒頭から作者森美登美彦自身のリアルの回想から始まり幕が上がる。
それは熱帯のテーマそのものに相応しく、錚々と始められる。
一方、じゃじゃ馬ならしでは実に自然な導入だ。
領主がふざけて、呑んだくれを「真の領主」として騙る。
「真の領主」として気が付いた呑んだくれと奥方が、領主によって用意された劇を観はじめる。幕が開き劇がはじまった..という寸法である。
インダクションは劇の本編前のやり取りである。
それが本当に面白く、まったくリアルで緊張のない呑んだくれ節なのだ。
文庫より引用する。
スライ:よし、見物しよう。やらせてくれ。----おい、その喜楽ってえのは、クリスマスの馬鹿踊りかね、それとも軽業のことかね?
小姓:いえ、殿。もっとずっと楽しい代物でして。
スライ:代物ってえと、家財道具かね?
小姓:いえ、まあ筋のある物語とでも申しましょうか。
スライ:まあいいや、
とにかく見物といこう。さあ、かかあの奥、おいらのわきに。へ、なにをくよくよ川柳柳、おたがい若いうちが花てえことよ。
(小姓、スライのそばに坐る。ラッパの吹奏。『じゃじゃ馬ならし』がはじまる)
思うにこの、インダクション部分の「やり取り」も内容が濃く、それだけで一本劇が完成しそうな内容だからこそ面白いのだと思う。
あまりにいい設定で読者はみな一様に引きつけられ、ついでに始まった劇を自然に「スライ」と一緒に観劇する気持ちになる…というのが良さではないだろうか。
どの幕でも「傍観者」がそこにいるシェイクスピア
ここが本題である。
私はこれまであんまり戯曲を読んだわけでもないが、本作は他の劇に比べてすばらしい一つの特徴がある。
もちろん言葉遊びや、恋に対する壮麗な字句もそうなのだが、ひとつは常に「傍観者」が立って眺めているということだと思う。
例えばこうだ。
ルーセンショ:このパデュアではやがて友達もたくさんできようが、客としてもてなすにも適当なところが欲しいな。
おや?-----おい、あの連中はなんだろう?
(略)
グレミオ:結婚よりも異議を申し込みたいよ。わしには手ごわすぎるて。
どうだ、ホーテンショ、あなたは若いからいいだろう?
キャタリーナ:お父様にうかがいますが、なんでこの私をこんな虫けらの前でさらしものにするんですか?
ホーテンショ:え、虫けらだって!なんてことを言うんだ。
(略)
ルーセンショの従者:(小声で)こいつはおもしろくなってきましたぜ。あの娘、気がふれてるんですかね。あれで正気ならとんでもないじゃじゃ馬だ。
(以下略)
ちなみに上記が"じゃじゃ馬娘"キャタリーナの当劇での第一声である。ちなみに私はキャタリーナが大好きだ。
このようなシーンが「じゃじゃ馬娘」にはたくさん出てくる。
「当人-傍観者<観客」という構図だ。
ちなみに「当人」の中にも「きちんとしている人,間抜けな人,勘違いして場を混乱させる人」が必ず混じっている。
これもとても大事なところで、これがないと喜劇は完成しないと思われる。
(つまり「間抜けかつ下品な冗談」と「勘違い」と「ハイレベルな言葉遊び」で喜劇は成り立っている。)
さらに留意してほしいのが、上記の「当人-傍観者<観客」という構図になるときの流れだ。
この場合、必ず直前に「当人」がひと演技している。主体的にシーンをつくっている。
つまり、舞台の中心に「当人」のみが登場するシーンがあってその直後に当人は「傍観者」へと切り替わるのだ。ちょうど上で引用したキャタリーナ登場のシーンが同様である。
このことにより、最初から「傍観者と当人」のみの情景よりも客が劇に入り込みやすくなる。
そう。後に「傍観者」となる人物たちも一度「当人」になる。よって観客は傍観者を「当事者」として意識しやすくなるのだ。
まとめ
私はこの本を読んで、この本「じゃじゃ馬ならし」が大好きになった。
本編は「男子」が「女子」を調教するという酷いものであり、検索すると「*ミソジニー」等批判の言葉がいっぱい出てくるが、どうでも良いくらい掛け値なしに面白い。
*ミソジニー…女性や女らしさに対する嫌悪や蔑視のこと。
以前のブログで
例えば大昔の日本小説を読むと当たり前のような男尊女卑にでくわした、としよう。
特筆したいがその場合、作者はそれを「自分の価値観の範疇だと思っていない」。
その事に気づいた瞬間、物語は醒める。
と書いたが、あれはあまり本に没入できるかということに関係がなかったと気付いた。
いくら時代錯誤でも、ずば抜けて面白い作品に引き込まれたら関係ないのだと思う。本当に面白いのだ。そうなったら何も目に入らず、客観的に批判することも出来ず、ただただ身を震わせて脳に刺激を感じることしか出来ない。
みんなも読んでみて。
それから、(シェイクスピアが面白くなくても)それぞれが身を震わせるほどに面白い作品があったら沖野に教えてほしい!
…まあ以前も書いた。
「名作」個人そのものの体験・固有の体験なので、もしかしたら分かち合えないものなのかもしれないけど。
以上'「じゃじゃ馬ならし」から見る戯曲のテクニック'、でしたっ!