サーチライトのつもりだ!

沖野のブログです。続けられるか?

「熱帯」で彼は人生の螺旋階段をのぼる

 

青春へのサーチライト沖野です。

それでは今日も元気にいってみよう。

 

今回の本と評価
 [森見 登美彦]の熱帯 (文春e-book)

https://www.amazon.co.jp/dp/B07JZ72DMH/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

「熱帯」

著者‥森美登美彦

出版社‥文藝春秋

 

面白度 ☆☆☆☆

読みやすさ ☆☆☆☆

テーマの深さ ☆☆

こんな気分のときに読みたい:涼しい季節

 

「熱帯」はどんな本なのか
まずはあらすじ抜粋しよう。(公式ホームページより引用)

 

 

 沈黙読書会で見かけた『熱帯』は、なんとも奇妙な本だった。
謎の解明に勤しむ「学団」に、神出鬼没の「暴夜(アラビヤ)書房」、鍵を握るカードボックスと「部屋の中の部屋」――。
幻の本を追う旅は、いつしか魂の冒険へ! 

 

 

 

残念ながらこのあらすじの中で正しい箇所は一つしかない。

「幻の本を追う旅は、いつしか魂の冒険へ!」

以上である。

それ以外は嘘である。

 

「冒険」。それは心躍る少年の夢だ。

実際に、作中には「鬱々としげるジャングル」や「島々」が出てくる。

迷い込んだ無人島、髭面の「謎の男」…。

しかし、よく読むにつれ「儂は未来のお前だ」と名乗る浮浪者が出てきたり、島の「根底」を探ったりする箇所に気になる。

つまりそれは、「将来の自己への不安」、「己のアイデンティティ」ではないだろうか…。

これらはすべてメタファーである。

実は代表作を次々と世に出したのち、森見登美彦は刊行の頻度を落としている。

 

そう、これは森見登美彦の「アイデンティティの模索」について書かれた本なのだ。

 

清書としての本、観察蓄積としての本

しみじみ思うが小説には主に3つの種類がある。

 

ひとつは作者固有の世界観を舞台した「物語小説」である。

これは標題の「観察蓄積としての本」である。

重松清の「きみの友達」、アーシュラKルグインの「ゲド戦記」、J.R.R.トールキンの「指輪物語」が一例として挙げられる。

「物語小説」は登場人物がその世界で起きていることを受け止め行動する、という形式を取っている。 

ゲド戦記指輪物語は架空の国で架空の種族が活躍する。

当然だが時系列は「現在→少し先の未来」であり、目的が達成されるか、後世に引き継がれることで物語は語り終わる。

 

重要なのは「観察蓄積」である。

物語の舞台は作者の筆の上に顕れる。

現実とかけ離れた魔法の世界や、知らない国。

それらは作者の「観察結果」だ。

このとき作者は自分以外の「外」を観察している。

自と他でいえば「他」に意識が向いているわけだ。

 

ふたつめは自身の体験をドキュメントとして綴る「 エッセイ」である

さくらももこの「ももの話」や開高健の「開口閉口」などがそれに当たる。

なお、限りなくエッセイに近いが主人公が異なる「事実ベース式物語」もこちらに分類する。

後述の「清書本」に対し、「事実ベース式」は見かけがそっくりでルーツは全く異なるものだからだ。

 

みっつめは過去の苦しみを昇華するために発した「清書本」である。

中勘助の「銀の匙」がそれに当たる。

このタイプはどんな場合であっても、「自分」と「過去の現象」が登場人物になる。

よって「他」は存在しない。ひたすらに「過去の自分」と「内的な心象」で終わる。

 

 

「清書本」は必然に迫られて書かれるものだ。

それは作者がコントロールできるものではない。

リルケがこんなことを言っている。

詩はほんとうは経験なのだ。

(略)

 

しかも、こうした追憶をもつだけなら、一向何のたしにもならぬのだ。

追憶がおおくなれば、つぎにはそれを忘却することが出来ねばならぬだろう。

そして、ふたたび思い出がかえるのを待つおおきな忍耐がいるのだ。

思い出だけなら何のたしにもなりはせぬ。

追憶が(略)もはや僕ら自身と回別することが出来なくなって、初めてふとした偶然に、一篇の詩の最初の言葉は、それら思い出のまんなかに思い出のかげからぽっかりうまれて来るのだ。

 

ここでリルケが言っているフローは、

省略部分も含んで解説するが

・少年の日と明るい青年の日々を思い出す-

・ 産婦や通夜といった成人の日々を追憶する-

・追憶を忘却する-

・追憶が血肉となる-

・思い出の影から詩が生まれる-

 

となる。

リルケ先生の詩のつくり方教室である。制作期間はおよそ80年であろうか。

ちなみに森見登美彦は現在40歳前後。

フローで言ったらおそらくひとつめの段階ではなかろうか。

 

彼の本から抜粋する。

「…もう僕には書けません」

私は首を振った。

「僕は変わってしまった」

そのとき湧き上がってきた感情は哀しみとも安堵ともつかないものだった。

失われた世界への惜別と、新しく切り開かれていく世界への期待。

ただひとつ分かっていたことは、この世界も私自身も、二度と以前の姿に返ることはなく、ここから私の新しい生が始まるということだけであった。(「熱帯」より)

 

その手前に興味深い箇所があるのでそこも抜粋したい。

「気をつけます」

「生き延びることが大事だよ、佐山君」

栄造氏は言った。

「なんとしても生き延びなければ」

 

 

人生の螺旋階段をのぼるということ

「生き延びなければ」。

私はここを読んで泣いてしまった。

 

そして残念に思った。

彼の青春----といって差し支えないと思うが---はもう帰ってこないのである。

 

私たちは20になる。

高校生活はもうはるか彼方に消え、忘却に霞むばかりだ。

世の中に触れ、こわごわながら実践していったあの新鮮な時間は返ってこないのだろうか?

ひとつひとつが鮮烈だった時間は?

 

歳を経るにつれだんだんと生きやすくなり、世界に慣れ、鮮やかだったものがよくわからなくなってくる。

足場も分からず、自分の世界へ理解の槌をおろせなかった戸惑いは、そのまま消え槌はおろされないままなのだろうか?

「良識のある大人」になって?

 

森見登美彦は「新しく切り開かれていく世界への期待」といった。

私はそれも「分からない」。

変わることが怖いと思う。

 

しかし、リルケ

「こうした追憶をもつだけなら、一向何のたしにもならぬのだ。

追憶がおおくなれば、つぎにはそれを忘却することが出来ねばならぬだろう。」

 でいえばいつかは返って来るのだろうか、思い出として。

 

私は私に聞いてみたい、20年後、自分のブログを読んでどうだったのか。

果たしてそれを懐かしく思うだろうか、切ない痛みがきちんと胸を裂いてくれるだろうか。

 

 

 

一人暮らしということ

先日「些細なメモ」という投稿で

 一人暮らしということで一本ブログ書きたい

 と書いた。

 

そのときの有言実行が本投稿である。

あまり読者に一人暮らしをしている人は少ないかも知れない。

けれどまあ、お付き合いいただきたい。

 

さっそく、「些細なメモ」より引用する。

その日に私が感じた一つの情動に関しての話だ。

蛇口の水が出っ放しで、誰も注意してくれないときにこう思った。

ひとはいつか独りになるけれど、側で暮らす家族がいないということはとても(長い目で見ると)風変わりだ

 

などと考えてる

……末尾は日本語の文法で言えば

などと考えている、が正しいのだが。だが過去の私には届かない。ちゃんと今後書こう。

 

私は2年前から一人暮らしをしている。

金銭的には扶養に入っているので、まったく自立はしていないが生活しているのは一人だ。一人で身の周りのことをやっている。

一人で、家にいる。

 

そこには父も母も誰もいない。

おじいちゃんもおばあちゃんも犬のポチもいない。(ときにポチという犬のネーミングセンスには日本の文化に苦言を呈したい。なぜポチなんだ)

 

家というのは「不必要なもの」の集合体である、というのが私の意見だ。

もちろん物理的な話ではない。概念としてだ。

君は小学生のころにおうちの家具や壁で身長を測らなかっただろうか。

そのとき当たり前のように標をつけなかっただろうか。

 

また小さいころ学校の授業でやった「アサガオ」、あの鉢がベランダに残ったままになっていないだろうか。

幼いころの集めたカードゲーム のデッキが押し入れにないだろうか。

 

それらは全部、今いらないものである。

母が、過去の自分が、おばあちゃんが「せっかくだから取っておこう」として残したものでないだろうか。

いつだって不要なものは ぬるく、まだるっこしく、田舎くさいほど垢抜けず、重く、そして「あたたかい」。

 

それが家だ。

そして正確には実家だ。

 

私はまだ一面的に「家」というものを話しているにすぎない。

正直にいって、この考え方は少し前から私の中にあった。

 

だから今回のブログを書こうと思ったのには別の考え方、きっかけがある。

それが冒頭に引用した情動だ。

蛇口の水が出っ放しで、誰も注意してくれないときにこう思った。

ひとはいつか独りになるけれど、側で暮らす家族がいないということはとても(長い目で見ると)風変わりだ 

などと考えてる

いまだに言うが「考えてる」ではなく「考えている」だろう、私よ。ちゃんと学び気をつけい。

 

母は、小言を言ってくれた。

ふとしたとき、(そう上記のとき) にそれはもうないということに気づいた。

抜け落ちている。というか、虚構、というか。

 

そこだけ「あるはずだった」のにもうない、それは成り立たない、と知ることがあったのだ。母はいない。この家の中にその小言はない。

 

それが、ああ一人暮らしなんだなぁと思ったのが今回の情動だ。

それ以上に正直説明できることがなくむずかしい。

 

私たちは当たり前なものに生かされている、とでも言おうか。強いて言えば。

 

実際知らなかったのだ。

蛇口の水が止まってないとき、「ああ、お父さんそこ止まってなかったよ」という言葉だ、そういうものだ。

それは愛でもなく家の不要なアサガオでもない。それは「必要な当たり前」だ。

当たり前なはずだった。

 

私はもう家にほかの誰かがいる生活をしていない。

それで彼女(母)のような役割を自分で担っていこうとか、それが出来ていないからどうしよう、とかそういった社会人の義務、みたいな話にはならない。できない。というか、したくない。

私の話はこうだ。

"それが一人暮らしなのだ。"

 

うん、ただそれだけ。

それ以上でも以下でもないのだ。

 

お付き合いいただいてありがとう。

 

↓締めの一曲

https://www.youtube.com/watch?v=TnlPtaPxXfc

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

些末なメモ

2020/04/06

「一人暮らしということ」で一本ブログ書きたい

蛇口の水が出っ放しで、誰も注意してくれないときにこう思った。

ひとはいつか独りになるけれど、側で暮らす家族がいないということはとても(長い目で見ると)風変わりだ

 

などと考えてる

 

今日はもうコロナで人と話せないことで一杯一杯で、段取りついたら書く、感じに持っていきたい

 

そしてこれもブログ1本にカウントしちゃうので、今日の1日1本とみなすのだ〜

Can’t take eyes off you!!!

久々にこの曲を聴いた。

 

 

(1日ひと記事たまにやっておきたいからあげるだけの記事なので注意)

 

歌詞を載せます

You're just too good to be true
Can't take my eyes off of you
You'd be like Heaven to touch
I wanna hold you so much
At long last love has arrived
And I thank God I'm alive
You're just too good to be true
Can't take my eyes off you


Pardon the way that I stare
There's nothing else to compare
The sight of you leaves me weak
There are no words left to speak
But if you feel like I feel
Please let me know that it's real
You're just too good to be true
Can't take my eyes off you


I love you, baby, and if it's quite alright
I need you, baby, to warm a lonely night
I love you, baby, trust in me when I say:
Oh, pretty baby, don't bring me down, I pray
Oh, pretty baby, now that I found you, stay
And let me love you, baby, let me love you


You're just too good to be true
Can't take my eyes off of you
You'd be like Heaven to touch
I wanna hold you so much
At long last love has arrived
And I thank God I'm alive
You're just too good to be true
Can't take my eyes off you

 

I love you, baby, and if it's quite alright
I need you, baby, to warm a lonely night
I love you, baby, trust in me when I say:
Oh, pretty baby, don't bring me down, I pray
Oh, pretty baby, now that I found you, stay
Oh, pretty baby, trust in me when I say

 

PVが超面白いので見て

https://m.youtube.com/watch?v=Cc1QzIWWIrc

だらだらと話す

 

好きな本が何冊かある。

露骨に詩情なのが

アンデルセン-絵のない絵本

・ミヒャエルエンデ-夢のボロ市

 

次にまあまあ詩情なのが

テネシーウィリアムズ-欲望という名の電車

・オスカーワイルド-サロメ

 

サロメはすごいぞ。

FGOやってる人は深堀りの意味も込めていちど読んでみてほしい。

 

そして異色だが漫画、「STAY GOLD」である。

「staygold 漫画」の画像検索結果


BLだ。気をつけてくれよな。

 

素晴らしいので好きだ。

 

ワンピースや他の漫画とちがって描き込みは少ない。

だが見てくれこれを。

 

*ここから怒涛の勢いでSTAY GOLD引用が続く。

気をつけてくれよな。

 

5巻のラストだ。

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春がくれば すぐに



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台風をつれて夏がやってくる

 

文章にしてみた。

・春がくれば すぐに

・台風をつれて 夏がやってくる

 

ひらがなが多いな……。

 

しかし2枚目少年の顔の向きから「振り返る」イメージが想像される、

そのさっという音がしそうな、風が吹いたようなところに夏がやってくるわけだ。

 

春がくればすぐに

 

夏~の間に改ページがあるのが特徴。

いくつか抜粋するので秀良子パワーを感じとってくれ。

BL無理な人はほんとブラウザバックな

 

恋をする人は

ふたつにわかれる

強くなるか

弱くなるか

 

恋を

する人は

 

そういえば

俺はいつ 大人になったん だっけ

そういえば

駿人はいつ

もういっちょ!

それが恋かと問われたら

ひそめた声

汗ばんだ肌の熱

ふたりぶんの心臓の音

それが恋かと問われたら/イエスともノーとも言える気がする

 

だって俺には指針がなかったのだ

家族の距離感というものの

 

それが恋かと問われたら

あまりに強烈すぎて判断ができない けど 俺が

彼女という人間のことがとても好きだったことは間違いない

世界でたったひとりの共犯者のように

ただ

彼女は俺よりもずっとはやくずっと強く

家族というものの不確かさに気づいていたのだと思う

 

こいつが何ページにも何ページにも渡りページの隅にちょいちょいと差し込まれてゆきます。

絵と会話とモノローグ(上記のような部分)で詩情の空間をかもしだしている。

 

風が吹いてそこに「夏がくる」とやれるのが秀良子だ。

 

私はそれに勝てるセンチメンタルを知らない。

 

しかし漫画の話ばかりしているな。教養がなくて申し訳ない。

 

結局言いたかったのは詩情は、

・繰り返し と

・空間(間) になる。

あと主語の抜けや

密に関連しないところへの飛び石、端的な形容詞の選定などになるんじゃないだろうか。

 

だからまあ「今」を切り取っているのだ。

 

よく晴れた公園で詩ができたとする、

そのときに

そして日が翳ってーーーーなどとやらない、

翳った日がそこに、とやる

時の移ろいを描写できない

 

描写するにしても「時の描写」だけしか切り取れない。

たとえば

 

朝に起きたからパジャマを脱いで下に行ったけれども、もう皆んな家を出たあとだったので目玉焼きを食べてから家を出て学校に向かいました。

が描けない。

密な時間の推移だから。

 

しかし考えてみるとどうやっても詩にできないのか?

不肖沖野がちょっと試す。

 

朝起きたら私はパジャマを脱がなければいけないのか?

アンチテーゼ、いつも朝ははれやかな匂いがする

起きたら私は学校にいかなければならない

今日という一日は世界のどこから始まっているのか?

目玉焼きを食べて出かけよう、

一日の始まりに出会うために

 

これだめだ。気持ちわる。うええ。

上の文は「行動」に注釈してるからなんだろうな、詩には…ならない…。

 

あ。でもこれは再現できてるわ。詩の時間推移。

映画「コクリコ坂から」オープニングテーマの"朝ごはんのうた"である。

以下歌詞より抜粋

お鍋はグラグラ  お釜はシュウシュウ

まな板はトントトン

お豆腐フルフル  卵はプルプル

納豆はネバネバ
焼けたフライパンに卵をおとして  お鍋に味噌をといて

あつあつご飯はおひつにうつして  支度は上々


みんなを起こして  みんながそろったら

さぁ沢山めしあがれ  お日様も輝いてる
みんなで朝ごはん

わたしが作った

いそいで いそいで でも味わって食べてね

 

…。

でもこれ詩ではないな??

 

よって結論である、時間描写は詩には無理。

 

読み返してみると日に日にブログのクオリティが下がっている。

だがまあオールオーケーである。

 

けどやっぱ詩に時間描写は全然できるような気もしてきたな。

個人的に夏目漱石夢十夜が好きで一夜目をいまネットで見たんだが、

あれはほぼ詩に近いし時間推移もバリバリしているよな?

うーんわからん、教えて偉い人。

ということで詩の定義などググってみた。

 

 

sibunko.exblog.jp

 

読んでて気持ち悪くなってしまった。

要は詩情があればオーケーな気がするのである。

うーん。

 

まあ色々言ったが結論としては秀良子はいいぞ!ということだ。

うんうん。

7時は10時、10時と7時

 

今日の代々木公園。

父と代々木公園に行った。

外はとても寒かった。

夜映像研を見て、鍋を食べ、つまらない作用反作用の話をして父が船を漕ぎ始めたので外に出たという次第だ。(私は作用反作用を知らなかった)

外で竜巻の中にあらわれる稲妻みたいな木があったので写真を撮った。

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この木をすこし行った先で若者が酒盛りをしていた。

大きな声でみんな笑っているのが聞こえていた。

ギターで椎名林檎を弾いているのも聞こえていた。歌舞伎町の女王を歌っていた。

 

しばらく行った向かいからチューハイ缶を手に持った3人の女性たちが歩いているのが見えた。

ジャニーズのファンサの話をしていた。

 

冷える空気の中かなり歩いた。しかしほとんど人に会う気配はしなかった。

私は代々木公園は夜はランナーしかいなくて健全だよと言った手前申し訳なかった。

父は「7時と10時は違うんだよ」と私に言った。

7時と10時は違うんだよ。それが学べた。

私はこれまで区別しなかった夜を、少なくとも公園では気をつけたいと思う。

ランナーは9時には食事につき11時過ぎには寝ているんだろう。それには父もそうだと言った。(それにしても模範的な健康さだ)

 

あ。桜が咲いていた。

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なんか詩ができた

知らない国の

知らない街で

国の公園に火が回る

7時は10時

11時は17時

いつだって健康者は正直だ

国の情けでここにも火が回る

缶チューハイ

置かれた夜に

写真を撮る